6回利上げして、まだ1ドル157円。それでも僕は円高がいいと思っている
はじめに— 1皿の上の数字から
給食の皿に、唐揚げがひとつ。
数年前、そんな写真がSNSで出回って、ずいぶん話題になった。あれは極端な一枚だったと思う。でも、全国の学校の調理室で、肉を減らして豆腐でかさを増し、果物を献立から外し、汁物の具を薄く切って、なんとか栄養基準の数字だけは守る——そういう工夫が積み重ねられてきたのは事実だ。現場の栄養士さんや調理員さんは、本当によくやってくれている。問題は、現場にそういう工夫を強いる構造のほうにある。
一方で、同じ時期のニュースはこう言っていた。株価は史上最高値。上場企業の利益も過去最高。春の賃上げ率は5パーセント台。
どちらも本当だ。だから厄介なのだ。
僕は市議会議員をしている。マクロ経済の専門家ではない。でも、議員の仕事をしていると、国の統計が「良くなった」と告げる数字と、相談に来る人の財布の中身が、まったく別の話をしているのを毎日のように見る。この記事は、その「ずれ」の正体を、できるだけ数字で、できるだけ実数で追いかけてみた結果だ。
先に立場を言っておく。僕は、円は強いほうがいいと思っている。1ドル157円より、100円のほうがいい。これが少数派の意見だということは自覚している。円安は輸出企業を潤し、株価を押し上げ、海外からの観光客を呼び込む——そう言われ続けてきたし、その一部は事実だ。それでも僕は円高派だ。その理由を、順に書いていく。
1. 「数字は良くなった」は本当だ——だから厄介なのだ
まず、良いニュースをきちんと認めるところから始めたい。ここをごまかすと、あとの話が全部うさんくさくなる。
2026年に入って、実質賃金は前年比でプラスに転じた。7月時点で7か月連続のプラス、伸び率は2パーセントを超えている。春闘の賃上げ率は5.01パーセント。実質ベースの雇用者報酬は、2026年の4〜6月期にようやくコロナ前のピークを取り戻した。長く「物価に賃金が追いつかない」と言われてきた局面は、統計上は終わりつつある。
ここで「でも実感がない」と言うのは簡単だ。けれど、それでは説得力がない。実感がないなら、なぜないのかを数字で言わなければいけない。
一つ目の手がかりは、平均と中央値のずれだ。近年の賃金上昇は「平均値が中央値を上回る」傾向がはっきりしている。上のほうと下のほうが引き上げられて平均は上がるが、真ん中の層の伸びは相対的に弱い。「平均で2パーセント上がった」と言われても、ボリュームゾーンの人がそれを受け取っていなければ、実感がないのは当たり前だ。
二つ目は、家計が予想している物価だ。日銀の調査で、家計が「1年後の物価はどれくらい上がるか」と聞かれて答える中央値が、プラス10パーセントという水準で高止まりしている。統計上の物価上昇率より、人々が肌で感じている物価上昇率のほうがずっと高い。給与明細の数字より、スーパーのレシートの数字のほうを、人は信じる。
三つ目は、お金の逃げ方だ。家計の金融資産のうち現金・預金の比率は、長く50パーセント台前半で安定していたのに、2025年9月末に50パーセントを割り、2026年6月末には45パーセント近くまで下がった。「貯蓄から投資へ」が進んだ、と前向きに語られる。でも裏を返せば、持っているだけで価値が目減りする円から、人々が逃げ始めたということでもある。
そして四つ目は、皿の上だ。給食費を値上げせざるを得なかった自治体、値上げを避けるために公費を投入し続けてきた自治体、どちらも全国にある。実質賃金がプラスに転じた年に、給食の食材費はまだ上がっている。
僕が学んだことがひとつある。経済を「率」で見ると、だいたい良く見える。成長率、上昇率、賃上げ率。でも暮らしは「実数」でできている。給料の額、レシートの額、皿の上の唐揚げの数。率で政策を評価し、実数で暮らしが決まる——このずれが、「数字は良いのに実感がない」の正体だと思う。
2. 円安は「景気対策」ではなく「所得移転」だ
では、なぜ率は良くて実数は良くないのか。僕の答えは、円安だ。
算数の話をする。ある日本企業が海外で1ドルの利益を上げたとする。1ドル100円なら、決算書には100円の利益が載る。1ドル150円なら、同じ1ドルが150円と書かれる。製品が余計に売れたわけでも、努力が実ったわけでもない。為替が動いただけで、円建ての利益は1.5倍になる。「過去最高益」の少なくない部分は、この算数でできている。
この膨らんだ利益は、誰のものになるか。日本の上場企業の株式のうち、海外の法人や投資家の保有比率は34.7パーセントで過去最高だ。国内の個人は17.4パーセント。膨らんだ利益は配当や自社株買いに回り、その3分の1以上は海外の口座へ出ていく。残りも、従業員の基本給を大きく引き上げる原資になるより先に、内部留保として企業の中に積み上がる。
一方、円安の請求書は誰に届くか。原油、ガス、小麦、大豆、飼料、肥料。輸入品の値段は、世界の相場が1円も動いていなくても、円が弱くなるだけで上がる。それはガソリンスタンドの電光掲示板に、電気料金の明細に、スーパーの食品パックの容量に現れる。しかも飼料と肥料が上がれば、国産の野菜も肉も卵も連動して上がる。「国産だから円安は関係ない」という逃げ場は、実はほとんどない。請求書は、円で給料をもらい、円で買い物をし、円で貯金をしている人のところに届く。
輸出が増えて雇用が生まれるなら、まだ話は違う。でも、この数年の円安局面で、輸出の「金額」は膨らんだのに、輸出の「数量」はほとんど増えていない。日本が輸出しているものは、価格が1割下がったから1割多く売れる、という性格のものではなくなって久しい。
つまり円安とは、景気を良くする政策というより、国民全体の購買力を、輸出企業の決算書と株主の口座に移し替える仕組みだ。これは僕の独創ではない。貿易統計の実数を地道に見てきた人たちが、ずっと前から指摘してきたことだ。
もう少し具体的に言う。コツコツ貯めて1,000万円の預金を持っている人がいるとする。通帳の数字は1円も減らない。でも、1ドル100円の世界で買えたものと、157円の世界で買えるものは、まるで違う。海外から買うものの値段で測れば、その人の預金は3分の1以上の価値を失っている。これは誰かが議決したわけでも、誰かが同意したわけでもない。静かに、確実に、進んだ増税だ。
「でも観光地は外国人で賑わっているじゃないか」と言われる。その通りだ。ただ、それは同じコインの裏側でもある。外国人にとって日本が安いということは、日本人の1時間の労働が、世界の基準で安く売られているということだ。賑わいは本物だが、賑わいの源は、僕たちの安さだ。
これを「悪者探し」にするつもりはない。輸出企業が悪いわけでも、株主が悪いわけでもない。ただ、「円安で景気が良くなった」という説明は、所得移転の片側だけを見た説明だ、ということは言っておきたい。移転された側——国内の雇用の7割を支え、全企業の99パーセント以上を占める、価格転嫁の難しい内需型の中小企業と、そこで働く人たち——から見た景色を、政策は長く見てこなかった。
3. 日本は「買わなければ生きていけない国」だ
円安が所得移転だとして、それが他の国より日本で痛いのには理由がある。日本は、生きるために必要なものを、海外から買わなければならない国だからだ。
エネルギー自給率は、2024年度で16.3パーセント。これでもだいぶ改善して、この数字だ。原油は9割以上を中東に頼っている。食料自給率はカロリーベースで37パーセント。2025年度は、比較できる1965年度以降で過去最低に並んだ。主食の米でさえ、価格高騰で消費が減り、輸入米の割合が増えて自給率を押し下げた。
自給率が低い国で通貨が弱くなるとどうなるか。2026年の春、中東情勢が悪化して原油価格が高止まりしたとき、僕たちはそれを体感した。世界の原油価格の上昇に、円安が掛け算される。他の国が1.2倍の値上がりで済むところを、日本は1.2倍に円安分を掛けた額を払う。
さらに言えば、この数年、「買い負け」という言葉を聞くようになった。魚でも、肉でも、天然ガスでも、国際市場で日本の買い手が他の国の買い手に競り負ける。相手が高く買うからではない。僕たちの通貨が、相手の通貨より弱くなったからだ。自給率が低い国にとって「買い負け」は、価格の問題である前に、そもそも手に入るかどうかの問題になる。円安の先にあるのは、高い食卓ではなく、空いた皿だ。
通貨の価値とは、結局のところ「世界に対する購買力」だ。1995年、円は1ドル80円を割り込んだ。あの頃、普通の会社員や学生が海外に出て、現地の食事やホテルを「安い」と感じられた。それは日本が偉かったからではない。日本人の1時間の労働が、世界の市場でそれだけの食料とエネルギーと交換できた、ということだ。
今は、その鏡像の中にいる。日本の学生が海外に出ると、何を買っても高い。留学も、研修も、視察も、一つ上の世代が当たり前にできたことが、今の若い世代には贅沢になった。逆に、海外から来た人にとって日本は「安くて良い国」だ。同じ現象を、内側から見るか外側から見るかの違いでしかない。そして内側にいるのは、1億2,000万人のほうだ。
「強い円」という言葉は、どこか誇りの話のように聞こえる。でも僕が言いたいのは誇りではない。買える、ということだ。子どもの給食の鶏肉を、発電所の燃料を、農家の肥料を、世界の市場で買い負けずに買える。輸入に頼る国にとって、通貨の強さは生存条件そのものだ。
4. 円高派への反論に、僕なりに答える
ここまで読んで、「円高になったら輸出企業が潰れて、雇用がなくなる」と思った人は多いと思う。もっともな反論なので、逃げずに答えたい。
反論1:円高は工場を海外に追い出し、地方の雇用を奪った
1985年以降の急激な円高で、国内の工場が海外へ移り、地方の雇用が失われた。この記憶は重い。だから「円安で雇用を守る」が、長く政策の常識になった。
でも、2026年の日本は1990年代の日本ではない。あの頃、雇用は余っていた。今は、どの業界に行っても「人が足りない」と言われる。働き手が毎年数十万人ずつ減っていく国で、「雇用を守るために通貨を安くする」という処方箋は、前提が逆転している。守るべきは「仕事の数」ではなく、「一人の働き手が受け取る実質的な取り分」のほうだ。
反論2:そもそも、どうやって円高にするのか
ここが一番の急所で、円高派が一番ごまかしてはいけないところだ。
日銀は2024年3月に大規模な金融緩和を終え、そこから6回利上げをした。2026年9月には政策金利を1.25パーセントに引き上げた。1995年以来、約31年ぶりの水準だ。
それで円はどうなったか。10月末の時点で、1ドル157円台。ほとんど動いていない。
しかも不気味なのは、2025年の春以降、日米の金利差が縮んでいるのに円安が進んだことだ。金利差では説明できない円安が起きている。為替の専門家たちが指摘したのは、財政への懸念だ。政府が大型の財政出動に踏み込むとの見方が強まるたびに、長期金利が上がり、同時に円が売られた。「国のお金の使い方」そのものが、円安の材料になっている。
ここから僕が学んだのは、こういうことだ。「利上げすれば円高になる」という単純な話ではない。金利で円高を買おうとしても、買えない局面がある。そして利上げには代償もある。国債残高は1,100兆円を超え、長期金利は2.7パーセント台まで上がった。金利が1パーセント上がれば、借り換えが進むにつれて、年に10兆円規模で国の利払いが増える。為替介入も同じで、時間は稼げるが、体質は変えられない。
反論3:円高になれば、またデフレに戻るのではないか
これもよく言われる。1990年代後半からの長い停滞は、円高とデフレの記憶と結びついている。
でも、あの停滞の正体は何だったのか。通貨が強すぎたからだ、という説明がある一方で、働き盛りの人口が減り始め、家も車も買う人が減っていったからだ、という説明もある。僕は後者のほうが、実数を見たときに腑に落ちる。人口の山が過ぎれば、物を買う人は減る。それは金融政策では止められない。
そして今は、人手不足の時代だ。働き手が減ることは、需要を減らす方向にも働くが、賃金を押し上げる方向にも働く。この局面で円が強くなれば、輸入物価が下がり、賃金の上昇分がそのまま実質的な取り分になる。物価が上がらずに給料が上がる——それは「デフレ」ではなく、僕たちがずっと欲しかった状態そのものだ。恐れるべきは円高ではなく、円高になっても賃金が上がらない体質のほうだ。
だから、円高は「金融政策」ではなく「国の体質」の問題だ
通貨の価値は、中央銀行が作るものではなく、その国の体質を映す鏡だと思うようになった。
鏡に映っているのは三つだ。一つは、買わなければ生きていけない体質——エネルギーと食料の海外依存。二つ目は、財政の信認——この国のお金の使い方は持続可能か、という市場の視線。三つ目は、生産性——日本の時間当たり労働生産性は、データのある1970年以降ずっとG7最下位で、今やアメリカの半分程度しかない。
僕が「円高がいい」と言うのは、「日銀はもっと利上げしろ」という意味ではない。強い通貨に値する国の体質に変わろう、という意味だ。買わずに済む範囲を広げること。お金の使い道に筋を通すこと。一人の働き手が生む価値を上げること。円高はその結果としてついてくる。順番を間違えると、金利だけ上がって円は戻らず、利払いだけが増える。今まさに、そうなりかけている。
5. 給食の皿に戻る——「無償化」は始まった。でも
話を皿の上に戻す。
2026年4月、国は公立小学校の給食費を支援する制度を始めた。長く「給食無償化」として議論されてきたものが、ようやく形になった。これは率直に前進だと思うし、声を上げ続けてきた保護者や現場の人たちの成果だ。
でも、中身を見てほしい。国の支援には上限がある。1人あたり月5,200円(特別支援学校の小学部は6,200円)。食材費がこの上限を超える分は、保護者から徴収してよいことになっている。だから国は、この制度を「無償化」とは呼んでいない。「学校給食費の抜本的な負担軽減」という名前だ。
中学校は対象外だ。中学校の給食費を据え置いている自治体の多くは、物価高対策の臨時の交付金で値上げ分を埋めている。来年もあるとは限らないお金だ。
そして自治体は、上限を超えた分を市の予算で埋めて「保護者負担ゼロ」を実現するところと、超過分を保護者に請求するところに分かれ始めている。同じ県内でも、さいたま市は国の交付金の超過分を市が負担して、小学校の給食費をゼロにした。同じ国の小学生なのに、住んでいる市で、給食費がゼロか、数百円か、数千円か、変わる。
僕が市議会で見ているのは、まさにこの「差額」の世界だ。国の上限と現場の食材費の差をどう埋めるのか。中学校をどうするのか。臨時の交付金が切れたらどうするのか。どの市でも、避けて通れない議題になっている。
ここで、円の話とつながる。
学校給食は、子どもが1日に必要とするエネルギーの3分の1前後を担う設計になっている。家庭の事情によっては、1日でいちばんまともな食事が給食だという子もいる。その皿の中身が、どう決まっているか。
食材費が上がるのは、円安で輸入食材と飼料と肥料と燃料が上がるからだ。つまり、給食の質と保護者負担は、為替レートに連動している。子どもが今日お腹いっぱい食べられるかどうかが、ドル円の動きで決まる。これはおかしい。
同じことは医療費にも言える。子どもの医療費は、今やほとんどの自治体が何らかの助成をしている。2024年に国が自治体への不利な扱いをやめてから、高校生年代まで無料にする市町村が一気に増えた。良いことだ。でもこれも、国の制度ではなく、自治体の財政力と判断に委ねられている。隣の市に引っ越した途端、窓口で払う額が変わる。生存の基盤が、住所で決まっている。
だから僕は、給食の完全無償化を「子育て支援」としてだけでなく、「為替ヘッジ」として捉え直したい。子どもの食事という生存の基盤を、為替と市場の揺れから切り離す。上限なし、中学校まで、国の恒久財源で。それは子どものためであると同時に、通貨が弱くなったときにこの国が最初に守るべきものを、制度として固定するということだ。
地域の中で、エネルギーや食料を「買わずに済む」ように回していこう、という考え方がある。山の木で湯を沸かし、近くの畑の野菜を食べる。あれも本質は同じで、生存の基盤を為替から切り離す試みだ。地域でできることと、国でしかできないことがある。給食・医療・教育を現物で保障するのは、国でしかできないほうだ。
6. 働き手が減る国で、AIが働き始めた
ここから少し、先の話をする。
日本は、働き手が減り続ける国だ。これは何十年も前から人口統計が示していたことで、今さら驚くことではない。働き手が減れば人手不足になり、人手不足になれば賃金は上がる——そう考えた人たちは、人口減少を悲観一色で捉えるべきではないと言ってきた。実際、春闘5パーセントの背景には、企業の「人を繋ぎ止めなければ」という切実さがある。
ところが、ここに新しい変数が加わった。AIだ。
僕は仕事でAIを使い倒している側の人間で、その立場から言うと、事務処理、分析、文章、設計、コードといった仕事の相当部分は、もう人間がやる必要がなくなりつつある。これは予測ではなく、毎日の実感だ。
ここで気づく。日本は、働き手の減少とAIによる代替が、同時に、同じ速度で進む、世界でもほとんど唯一の国だということに。
欧米で「AIに仕事を奪われる」と恐れられている事態は、日本では「減っていく働き手の穴をAIが埋める」という事態として現れる。失業の問題にはなりにくい。代わりに、別の問題が前に出てくる。AIが生んだ付加価値は、誰のところへ行くのか、という問題だ。
今の社会保障は、「大人は全員働いて、給料から税と保険料を納める」という前提で設計されている。年金も、医療も、介護も、その前提の上に乗っている。だから働き手が減ると制度が苦しくなり、「もっと長く、もっと多くの人が働くように」という方向に政策が向かう。定年は延び、「生涯現役」が標語になる。
でも、AIが人間の代わりに価値を生む社会では、この前提のほうを見直さなければならない。働くことは、これからも尊い。働くことで得られる誇りや居場所は、お金に換算できない。でも「働かなければ生きられない」という条件を、制度から外していく必要がある。生きることと、働くことを、少しずつ切り離していく。僕はこれを、恐ろしい未来だとは思っていない。むしろ、人類が初めて手にする選択肢だと思っている。
ただし、ここで政治が引き受けなければならない仕事がある。「働くことが人生の中心だ」という物語を長く生きてきた社会で、その中心が緩んだとき、人は何を支えに生きるのか。子育て、学び直し、地域の世話役、ものづくり、介護、祭り、研究。お金にならないが、なくなれば社会が回らないものは山ほどある。それらに「立派な時間の使い方だ」と社会が言えるかどうか。制度の設計と同じくらい、この物語の書き換えが、これからの政治の仕事になると思っている。
7. ベーシックインカムの算数を、逃げずにやる
生きることと働くことを切り離す、と言えば、行き着くのはベーシックインカムだ。すべての人に、無条件で、生活に必要な現金を定期的に配る。僕はこの方向に賛成だ。でも、賛成だからこそ、算数から逃げたくない。
月7万円を、12か月、1億2,300万人に配る。7万円×12×1億2,300万で、約103兆円。国の一般会計に迫る規模だ。「AIやロボットに課税すれば賄える」と言う人がいる。方向としては僕も同じことを考える。でも「ロボット」の定義はどこで引くのか、課税された企業が海外に出ていかないか、既存の年金や生活保護とどう統合するのか——この三つに答えずに「財源はある」と言うのは、円安で「景気は良くなった」と言うのと同じくらい、片側しか見ていない。
そして、ここが円高派として一番言いたいところだ。さっき見たように、今の為替市場は「国のお金の使い方」を見て円を売る。財源の裏付けのない巨額の給付は、円安を招く。円安は輸入物価を上げる。配ったお金の購買力が、配った瞬間から削られる。強い円と、裏付けのない大型給付は、両立しない。だから僕は、「とにかく配れ、財源は後で考えろ」という議論には乗れない。配るなら、円の価値を守りながら配る設計でなければ、配った意味がない。
では、どこから始めるか。
子どもからだ。給食、医療、教育。現金ではなく現物で、所得制限なし、上限なし、国の恒久財源で。これは言わば「子ども版のベーシックインカム」であり、幸いなことに、国はすでにその入口に立っている。給食への国の支援が始まり、高校の授業料は所得制限が外れ、子どもの医療費もほとんどの自治体で助成されている。足りないのは、上限と、中学校と、全国一律と、恒久財源だ。ここを埋める費用は、全国民へのベーシックインカムに比べれば、桁が一つも二つも違う。
次に、既存の給付の統合だ。年金、生活保護、各種の手当。すでに配っているお金を一本にまとめていく中で、「無条件に配る」部分を少しずつ広げる。全体像は、後からついてくる。
そして財源の側では、AIやロボットが生む付加価値への課税を、具体的な数字で議論に乗せることだ。人を機械に置き換えた企業の超過利益に、どの範囲で、どの税率で、いくら集まるのか。試算を公開して、叩いてもらう。「機械に税金をかけるなんて夢物語だ」と笑われるかもしれない。でも、所得税も法人税も消費税も、導入されたときは夢物語だった。人間の労働に課税する時代から、機械の生産に課税する時代への移行は、一夜ではなく、20年かけてやる仕事だ。だからこそ、今から数字を出さなければ間に合わない。
順番を間違えなければ、ベーシックインカムは夢物語ではない。順番を間違えると、円だけが安くなって終わる。
おわりに—1率ではなく、実数で
長くなった。最後に、僕がこの記事で言いたかったことを、三つにまとめる。
一つ。経済は率で語られるが、暮らしは実数でできている。賃上げ率ではなく給料の額を、物価上昇率ではなくレシートの額を、成長率ではなく皿の上の唐揚げの数を見よう。政策の成否は、そこで判定されるべきだ。
二つ。円安は景気対策ではなく、所得移転だ。移転される側から見たとき、それは静かな増税だった。そして円高は、利上げで買えるものではなく、買わずに済む体質と、お金の使い方の筋と、一人が生む価値の結果としてついてくるものだ。
三つ。生きることを、為替と労働から切り離していこう。まず子どもから、現物で、恒久財源で。その先に、働き手が減りAIが働くこの国だからこそ描ける、新しい社会保障の形がある。
僕は、株価が上がることにも、企業が儲かることにも反対ではない。ただ、政治の目的はそこにはない。この国に暮らす人が、とりわけ子どもたちが、お腹いっぱい食べて、心配なく病院に行けて、学びたいことを学べること。それ以外の数字は、全部そのための手段だ。
手段を目的と取り違えなければ、議論はそんなに難しくない。皿の上を見て、実数を見て、順番を間違えないこと。それだけだ。
この記事に書いた数字は、すべて公開されている資料で確認できる。読み違えや古い数字があれば、遠慮なく教えてほしい。僕は誰かを言い負かしたくてこれを書いたのではない。率ではなく実数で、対立ではなく解決のために、同じ皿を見ながら話がしたいだけだ。
※本文中の数字は、日本銀行、財務省、文部科学省、農林水産省、資源エネルギー庁、厚生労働省、内閣府、日本取引所グループ、日本生産性本部の公表資料、および各シンクタンクの公開レポート(いずれも2026年10月時点)に基づいています。
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