頑張らなくても、幸せでいい社会へ ――ドラマ『銀河の一票』が、僕に問いかけたこと
普通に暮らしてる人が。 普通に仕事して頑張ってる人が。 子育てしてる人が。 老後を生活している人が。 電車で通勤してる人が。 そして、ただ生まれてきてくれた、それだけの人が。
「幸せだな」って思える社会。 不安のない社会。
――僕がずっと頭の片隅で描いている社会は、たぶんこの一枚の絵に集約されます。
でも、今の日本はどうでしょう。 多くの人が、頑張っても報われない。 いや、それどころか「頑張らないと、そもそも生きていけない」。
この違和感の正体を、僕はしばらく言葉にできずにいました。 それを一気に言葉にさせてくれたのが、先日最終回を迎えたあるドラマでした。
『銀河の一票』を見て、動けなくなった
関西テレビ・フジテレビ系の月曜10時枠で放送された『銀河の一票』。 2026年4月20日から6月29日まで、黒木華さんと野呂佳代さんのダブル主演で描かれた"選挙エンターテインメント"です。
物語はシンプルです。 与党幹事長の父の秘書だった主人公・星野茉莉(黒木華)は、父の不正を追ったことで、仕事も家も、何もかもを失います。 そんな彼女が偶然出会うのが、小さなスナックを一人で切り盛りするママ・月岡あかり(野呂佳代)。 政治のド素人であるこのママを、茉莉が"選挙参謀"として東京都知事選に担ぎ出す――という筋書きです。
プロデューサーは、冤罪と報道の闇に切り込んだ『エルピス』で高い評価を得た佐野亜裕美さん。 「政治」や「選挙」という、日本のドラマではどこか敬遠されがちな題材に、第1話から真正面から切り込んでいく作品でした。だから僕は、コメディだろうと油断して見始めて、途中から動けなくなりました。
刺さった理由は、大きく三つあります。
ひとつめ。「政治は、私たちの話だ」
作中で茉莉が、政治の素人であるあかりに向かって言うんです。 政治というのは、永田町の遠い世界の話じゃない。あなたの、私の、暮らしそのものの話なんだ、と。
これは、僕が政治の世界に足を踏み入れてからずっと言い続けてきたことと、寸分違わないメッセージでした。 生活の困りごとは、誰の隣にもある。それを変えるのが政治なら、政治は「偉い人の仕事」じゃなくて「私たちの仕事」のはずなんです。
スナックのママという、どこにでもいる"普通の人"が権力に挑む。 その構図そのものが、「普通の人にも力がある」という、静かで強い応援歌になっていました。
ふたつめ。タイトルに込められた「銀河」の意味
このドラマのタイトル『銀河の一票』は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が下敷きになっています。作中でも、この本が象徴的なモチーフとして何度も顔を出します。
そのなかに、こんな趣旨のやりとりがありました。 ――銀河は、どうしてあんなに綺麗なのか。 それは、ひとつひとつの星が、それぞれに綺麗だから。
このセリフを聞いた瞬間、僕は自分が冒頭に書いた詩とまったく同じことを、この物語も言おうとしているんだと気づきました。
社会という銀河が美しいのは、一等星みたいな特別な誰かがいるからじゃない。 普通に暮らし、普通に働き、子育てをして、電車に揺られ、ただそこに生まれてきてくれた――そのひとつひとつの星が、それぞれの場所でちゃんと光っているから。
「一票」というのは、その一つの星の輝きのことなんだと思います。
みっつめ。対立候補が「AI企業の社長」だったこと
そして、地味に、でも決定的に僕の頭に引っかかったのが、この点でした。 主人公たちの対立候補として、歯に衣着せぬ発言でメディアの人気を集めるAI企業の社長が担ぎ出されるんです。
つまり、このフィクションの選挙ですら、「AIと権力」というテーマを避けて通れていない。 資本と技術の力を持った人間が、政治の権力までも取りにくる。 それが、もう当たり前の風景として描かれている時代なんだ、と。
もうひとつ、忘れられない人物がいます。あかり陣営の選挙参謀を務める、たたき上げの男・五十嵐です。 彼は当初、対立候補を蹴落とすためなら、スキャンダルだろうが何だろうが使ってやる、という腹づもりでした。勝つためには手段を選ばない。政治の世界で生き抜いてきた男の、リアルな顔です。 ところが物語の途中で、彼は考えを変えます。この一件を選挙の道具に使うのはやめよう、と。真相は突き止めて責任は問う。でもそれは、票のためではなく、一人の人間の命の尊厳のために――と。 薄汚れた勝負師が、汚い勝ち方を捨てて、きれいに勝つことに賭ける。その転向が、僕にはたまらなく響きました。 政治は、相手を叩き潰すゲームじゃない。誰かの尊厳のために戦うものであっていい。そのことを、この物語は、きれいごとに逃げずに描いていました。
この四つが重なったとき、僕の中で、ずっと言葉にできずにいた問いが噴き出しました。
「頑張らないと生きられない」――この社会は、本当に正しいのか
物価は上がり続けています。 円安も進みました。 そのなかで、国民年金だけで月に6万円ほどの人が、その額で暮らしていけるでしょうか。 生活保護費で、人としての尊厳を保った暮らしができるでしょうか。
そして、そもそもの話です。 「サボったら食えない」。 「頑張らないと生きていけない」。 この、あまりに当たり前とされている前提を、僕はどうしても正しいと思えないのです。
朝、満員電車に押し込まれて、日中は気を張り詰めて働き、へとへとになって帰る。それでも、給料はなかなか上がらず、上がった分は物価に食われていく。 掛け持ちで働いても、なお生活はギリギリ。 定年後、少ない年金でやりくりしながら、スーパーで値引きシールを探す。 若い世代は、この先ずっとこの調子で走り続けなければいけないのかと、うっすらとした絶望を感じている。 ――これが、「頑張っている人たち」の、いまの現実です。 そんなに頑張っているのに、報われない。むしろ、頑張らないと、その場に留まることすらできない。
なぜ、人は頑張らないと生きてはいけないのでしょうか。
――ここで、ひとつ大事なことを、自分自身の姿と照らし合わせて整理しておきたいと思います。
正直に言うと、僕はめちゃくちゃ「頑張って」います。 夜中に睡眠時間を削って、小さな言語モデル(SLM)を自宅のサーバーで動かしたり、新しいサービスをいくつも作ってはリリースしたりしています。 でも、これは誰かに強制されているからではありません。 純粋に、面白いからです。知りたいから。作りたいから。知的な欲求が止められないから、勝手にやってしまっているだけなんです。
つまり僕が問題にしているのは、「働くこと」でも「頑張ること」でもないんです。 働くこと自体は、尊い。楽しい。人を生かす。 僕が正しくないと思っているのは、「働かないと"死ぬ"」という、生存を人質に取った強制のほうです。
テレビをただ見ているだけの人がいます。 スマホをコロコロとスクロールしているだけの人がいます。 子どもと一日中遊んでいる人がいます。 本当に、いろんな人がいます。
その一人ひとりに、僕は問いたいんです。 「なにが、駄目なんですか?」と。
法律を守り、誰にも迷惑をかけていないのなら、テレビを見て一日を過ごすことの、いったい何が悪いのでしょう。 僕には、何も悪いと思えないのです。
それでも僕らが、心のどこかで「それは駄目だ」と感じてしまうとしたら。 それは、僕らが無意識のうちに、ある一つの等式を信じ込まされているからだと思います。
**「価値あるものを生み出せる人間だけが、生きていていい」**という等式です。
なぜ、僕がこの問いに、これほどこだわるのか
少しだけ、個人的な話をさせてください。
僕が政治の世界に足を踏み入れたのは、立派な志があったから、というより、もっと切実な理由からでした。 我が家には、生まれてからずっと、病気とともに生きてきた子どもがいます。 入院と退院を繰り返し、家族で何度も、日本の小児医療や社会の支えの仕組みの中を、手探りで歩いてきました。
その日々の中で、僕は身をもって知りました。 制度は、確かにある。支える人たちも、確かにいる。 それでも、当事者になってみないと見えない穴が、そこかしこに空いている。 そして何より――「役に立てる」「稼げる」「生産できる」といった物差しが通用しない場所で、それでも人が、ただ生きて、そこにいてくれることの、途方もない尊さを知りました。
我が子は、何かを生み出せるから、価値があるのではありません。 生まれてきてくれた。ただ、それだけで、僕たち家族にとって、かけがえのない光です。
だから僕にとって、「生まれてきてくれただけで価値がある」というのは、きれいごとの理念なんかじゃないんです。 毎日、目の前で確かめている、動かしようのない事実なんです。 そして、この事実が、なぜか社会の仕組みの中では通用しない。「役に立たないと生きていけない」という等式の前で、簡単に踏みにじられてしまう。 その理不尽への怒りが、僕を政治に向かわせ、そしていまも、この文章を書かせています。
――少し、感情的になりました。話を戻します。
それは、僕が前に書いた「不登校」の話と、同じ構造だった
実は僕は以前、noteに「学校に行かなくてもいいし、真面目に生きる必要もない」という記事を書きました。 夏休み明けに子どもの自殺が増える、という毎年繰り返されるニュースへの、どうしようもない違和感からでした。
そこで僕が書いたのは、こういうことでした。 「不登校」という言葉には、「学校に行くのが普通」「行かないのは異常」という価値観が、"不"という否定の一文字に込められている。 その言葉の構造が、子どもに「自分は普通じゃない」と思い込ませ、親に罪悪感を抱かせ、子どもを追い詰めていく、と。
法律を丁寧に読めば、学校に「毎日通う義務」を子ども本人が負っているわけではありません。 義務を負っているのは保護者で、しかもその中身は「普通教育を受けさせる」こと。 子どもが「行きたくない」と意思を示したなら、それを尊重するのが、本来は筋なんです。
必要なのは「行かない自由」「真面目にしない自由」を認める文化と制度だ――僕はそう書きました。 人に迷惑をかけていないのなら、真面目に"見える"必要もなければ、真面目に"する"必要もない。日本は、すべての人に自由に楽しく生きる権利を保障しているのだから、と。
いま、資本主義とAIの話を考えていて、僕はハッとしました。 これは、あのときの話と、まったく同じ構造なんです。
子どもには「学校に行くのが普通」と言う。
大人には「働くのが普通、稼ぐのが一人前」と言う。
どちらも、「多数派が決めた"普通"に合わせろ」という圧力です。 「登校できないと、まともじゃない」と、「働けないと、生きる資格がない」は、双子のように似ている。 片方は子ども版、もう片方は大人版というだけで、根っこにあるのはまったく同じ呪縛なんです。
僕が冒頭に書いた「ただ生まれてきてくれた、それだけの人が幸せだと思える社会」という一行は、この呪縛を外した宣言でした。 何かをこなせるから価値があるのではない。生まれてきた、ただそれだけで、もう価値がある――という宣言です。
そこへ、AIが「暴力的な速さ」でやってくる
ここで、話が一段、重くなります。
不登校の話は、ある意味で"のんびり"した話でした。 「行かない自由を認めよう」という価値観の転換は、僕たち人間が、時間をかけて、文化と制度を変えていく努力の話だからです。人間が心を変えないかぎり、実現しません。
ところが、労働のほうは違います。 AIが、僕たちの心の準備なんてお構いなしに、「働く=価値」という等式のほうを、勝手に壊しにくるんです。
僕は、AIによって、あらゆる種類の人間の労働が影響を受けると考えています。 ホワイトカラーの知的な仕事も、いずれ多くが自動化されていく。 「今回も、新しい仕事が生まれるから大丈夫」という声はあります。実際、農業から工業へ、工業からサービス業へと、これまで人類は仕事を失うたびに、予測もしなかった新しい仕事を生み出してきました。「今度こそ人間の仕事はなくなる」は、毎回言われて、毎回外れてきた予言でもあります。
でも、僕は今回だけは、少し様子が違うと感じています。 これまでの技術は、人間の「筋肉」か「特定の作業」を置き換えるものでした。 AIが置き換えにくるのは、人間の「認知」そのものです。考える力、判断する力、つくる力。 逃げ込める先が、構造的に、どんどん狭くなっていく。
僕は仕事柄、毎日のようにAIを触っています。自分で小さなモデルを動かし、業務の自動化を組み、生成AIに文章もコードも書かせています。 その現場で肌感覚として思うのは、「この仕事は絶対にAIには奪われない」と言い切れる領域が、月を追うごとに減っている、ということです。 かつては「クリエイティブは大丈夫」「対人の仕事は大丈夫」と言われました。でも、絵も、音楽も、文章も、相談相手ですら、AIはもう当たり前にこなし始めています。 僕は、ほとんどあらゆる種類の人間の労働が、短い時間のうちにAIの影響を受けると考えています。ホワイトカラーもブルーカラーも、専門職も、例外ではありません。 これは、脅しでも煽りでもなく、目の前で起きている変化を、正直に言葉にしているだけです。
そうなったとき、僕たちは嫌でも、あの等式と向き合わされます。 「働けない人間は、生きていてはいけないのか?」という問いと。
僕らが「働かなくてもいい」と心穏やかに思えるようになる前に、機械のほうが先に「もう君の労働は要らない」と現実を突きつけてくる。 これは、選べる話じゃない。不可避の話なんです。
皮肉な話。全力で走った資本主義が、"床"を身ごもり始めている
さて、ここからが、このドラマを見ながら僕がずっと考えていたことの核心です。
「資本主義によって、これだけAIに莫大な資本が投下されている。 その結果として、社会はむしろ、ベーシックインカム(最低限のお金を、全員に配る仕組み)に近づいているんじゃないか」
こう書くと、「そら見たことか、資本主義は限界だ」という話に聞こえるかもしれません。 でも、僕が言いたいのは、まったく逆です。
これは、資本主義を否定する話ではありません。 むしろ、資本主義が全力で走った"結果として"、皮肉にも、労働に代わる分配のかたちに近づいていく、という観察の話です。
どういうことか。 AIに巨大な資本が突っ込まれると、生産性が爆発的に上がります。モノやサービスは、どんどん安く、豊かになっていく。 一方で、AIが人間の労働を代替すれば、賃金は減っていきます。
ここで、100年前のヘンリー・フォードの直感を思い出します。 彼が労働者の賃金を上げたのは、慈善のためではありませんでした。 「自分の工場で作った車を、買ってくれる客がいなければ、そもそも商売が成り立たない」――労働者は、同時に消費者でもあるからです。
これをAIの時代に置き換えると、こうなります。 AIがどれだけ安くモノを作れても、賃金を失った人々に購買力がなければ、そのモノは誰にも買われず、機械は自分の生産性で窒息してしまう。 だから、人々の手にお金を戻す仕組みが、道徳の問題としてではなく、システムを回し続けるための"部品"として、必要になってくる。
余った豊かさと、需要を維持しなければ回らないという圧力。 この二つが、社会をベーシックインカム的な"床"へと、じわじわ押していく。 これは、誰かの善意でもなければ、左翼の理想でもありません。 資本主義という機械の、内側から生まれてくる力学なんです。
そして、ここで一つ、大事な誤解を解いておきたいと思います。 「最低限の生活を全員に保障する」というアイデアの直系の先祖は、実は左派ではありません。 自由市場を信奉した経済学者ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」――収入が一定以下なら、税金を取るどころか逆に給付を出す、という仕組み――が、その源流のひとつです。
つまり、床を作るという発想は、「大きな政府でみんなに配れ」という話とは限らない。 むしろ「小さな政府」「自由な市場」を大切にする側からも、ちゃんと出てきた、地に足のついた現実解なんです。
もちろん、正直に言えば、簡単な話ではありません。 日本で全員に床を張ろうとすれば、その財源は途方もない額になります。しかも、AIが生み出す富の多くは、いまのところ海外のごく一部の巨大企業に流れ込んでいく構造になっています。「AIが安く豊かにしてくれるから、床は払える」と言うためには、その豊かさを、この国がどうやって税として捕まえ、国内に還元するのか、という難問を避けて通れません。 そこの答えを、僕はまだ完全には持っていません。持っていないことを、正直に書いておきます。 ただ、はっきりしているのは――この問いから目をそらしても、AIによる変化は待ってくれない、ということです。答えを持っていないからこそ、いまから議論を始めなければならない。この記事は、その議論への、僕なりの問題提起です。
「働かなくなったら人は堕落する」は、本当か
とはいえ、こう反論する人は必ずいます。 「床を作って、頑張らなくても食えるようにしたら、人は働かなくなって堕落するに決まっている」と。
これは、印象論で殴り合っても仕方がないので、実際に行われた社会実験の結果を見てみましょう。
フィンランドでは、2017年から2018年にかけて、無作為に選ばれた失業者2000人に、毎月およそ7万3000円を無条件で2年間支給する実験が行われました。 「お金を配ったら働かなくなるだろう」という懸念に対して、結果はどうだったか。 就業日数は、むしろ受給者のほうがわずかに多いくらいで、雇用への悪影響はほとんど見られませんでした。 その一方で、はっきりと大きな変化が出たのは、別のところでした。 受給者は生活の満足度が高く、精神的なストレスが少なく、「経済的に守られている」という安心感と幸福度が明確に上がっていたのです。 自分の人生を自分でコントロールできている、という自律の感覚が増し、ボランティアのような新しい社会参加に向かう人もいました。
そして、僕が一番心を掴まれたのが、カナダの実験です。 1970年代、カナダのある町で、貧困線以下の住民に対して、最低限の所得を4年間にわたって保障する「Mincome(ミンカム)」という実験が行われました。 ここでも、「所得を保障したら、人は働くのをやめてしまうのでは」と懸念されました。 けれど、実際に起きたのは、逆でした。 労働の減少は、予想よりずっと小さかった。 しかも、その"減った分"の中身が、胸を打つんです。 働く時間を減らしたのは、主に――学業を続けるために勉強に打ち込んだ若者と、生まれたばかりの子どものそばにいることを選んだ、産後の母親でした。
これが、答えなんだと思います。
床ができたとき、人は「サボった」んじゃない。 生まれたばかりの我が子と過ごし、学校で学び続ける――という、社会が本当は一番大切にすべきことに、時間を取り戻したんです。
僕が「子どもと遊んでいる人の、なにが駄目なんですか」と問うたこと。 その答えが、実験の中に、もう出ていました。 頑張りを"仕事"というモノサシだけで測る目には「働かなくなった」と映るけれど。 実際に起きていたのは、人間が、一番人間らしいことに戻っただけだったのです。
まとめると、こうなります。 床を作っても、人は働くのをやめない。 やめたわずかな人たちは、育児と学びに向かった。 そして全員に共通して起きたのは――安心と、心の健康の回復でした。
僕がずっと掲げてきた「安心」という言葉。 それが、理想論ではなく、データとして裏付けられている。 このことに、僕はとても勇気をもらいました。
ただし。その床を"配る"のは、資本家であってはならない
ここで、話を『銀河の一票』に、もう一度戻します。
あのドラマの対立候補が、AI企業の社長だったこと。 僕は、あれをただの配役だとは思えませんでした。
もし、この「床」を生み出す原資が、AIという巨大な資本から生まれるのだとしたら。 その資本を握った人間が、政治の権力までも手にしてしまったら、何が起きるでしょうか。
政治の世界は「一人一票」です。金持ちも、そうでない人も、持っている票は同じ一票。 けれど経済の世界は「一円一票」です。お金を持っているほど、動かせる力が大きい。
もし、経済で勝った者が、政治の権力まで飲み込んでしまえば。 「一円一票」が「一人一票」を上書きしてしまう。 床を"恵んでやる"側が、そのままルールを決める側になる。 それは、僕が思い描く社会とは、正反対の世界です。
だからこそ、はっきりさせておきたいことがあります。 資本主義は、確かに"床の原資"を生み出せるかもしれない。 でも、その床を「権利」として保障し、誰にどう配るかを決めるのは――あくまで「一人一票」の側、つまり政治でなければならないんです。
僕が不登校の記事で書いたことと、これは同じです。 あのとき僕は「子どもが学校に行かなくても、社会が学びの機会を保障すべきだ」と書きました。 今度は、「人が働けなくても、社会が生きる機会を保障すべきだ」というだけの話。 そして、その"保障"は、市場の論理ではなく、社会の――僕たち一人ひとりの一票の――責任なんです。
『銀河の一票』というタイトルの意味は、たぶんここにあります。 一つの星の輝きを、資本の力に消させないために。 僕たちには、一票がある。
僕の党は「頑張った人が報われる社会」と叫んでいる。矛盾するのか?
ここで、正直に、自分の立場についても書いておかなければなりません。
僕が所属する国民民主党は、「頑張った人が報われる社会」を強く掲げています。 「手取りを増やす」。働いた分がちゃんと自分に返ってくる社会を、と。 一方で、僕はこの記事で「頑張らなくても幸せでいい社会」の話をしている。 これは、矛盾しているのでしょうか。
僕は、まったく矛盾しないと思っています。 むしろ、この二つは、同じ一つの理不尽と戦っている、別々の半分なんです。
「頑張った人が報われる」は、天井の話です。頑張った分が、ちゃんと自分に返ってくる。「働くほど損」という理不尽を潰す。いわゆる「103万円の壁」のような、頑張りを罰する仕組みをなくす話です。
「頑張らなくても幸せ」は、床の話です。頑張れない人、頑張らない人も、そこから下には落ちない。死なない。安心できる。
この二つは、同時に成り立ちます。 床があって、その上に、なだらかな傾きがある。 床の上では、頑張った人はちゃんと報われる。 いや、むしろ床があるからこそ、その傾きは健全に働きます。 なぜなら、生存を人質に取られて仕方なく働くのではなく、安心の上で「選んで」頑張れるようになるからです。
国民民主党は「頑張っても報われない」という理不尽と戦っています。 僕はそこに、「頑張らないと生きられない」という理不尽も、加えたいだけなんです。 どちらも、理不尽と戦っている。片方は天井、片方は床。 両方を直して、はじめて「生まれてきてよかった」に届く。
そして、この床と天井を、一つの仕組みで両立させる技術こそが、先ほど触れた「給付付き税額控除(負の所得税)」です。 稼ぎが少ないうちは給付が出て、稼ぐほど給付は減っていくけれど、手取りそのものは増え続ける。 「働くほど得」という原則を保ったまま、床を張ることができる。 これは、バラマキでも、無条件の過激なベーシックインカムでもありません。 国民民主党が掲げる「手取り」路線の、ど真ん中の延長線です。
さらに言えば、AIの時代には、この床の議論こそが、党の理想を"守る"ことになります。 AIが労働と所得を切り離してしまえば、放っておくと富は資本にどんどん集中し、「頑張った人が報われる」という約束そのものが、未来では守れなくなるからです。 だから僕は、床を語ることで、党の理想を裏切るのではなく、その番人でありたい。
AIは、脅威であると同時に、「時間」を返してくれる
ここまで、AIを「労働を奪うもの」として、少し怖い顔で描いてきました。 でも、話はそれだけではありません。AIには、もう一つの顔があります。 それは、人間から「時間」を奪うのではなく、返してくれるという顔です。
僕が政策で掲げている柱は、「手取り」「時間」「安心」の三つです。 このうち「時間」は、意外と語られません。でも、僕はこれがいちばん大事かもしれないと思っています。
考えてみてください。 僕たちの人生の、どれだけの時間が、本当はやりたくもない作業に吸い取られているでしょうか。 意味の薄い書類仕事。同じことの繰り返しの入力作業。誰も読まない報告書。前例踏襲のためだけの手続き。 そういう「くだらない労働」を、AIは、驚くほど得意としています。
もし、こうした作業がAIに肩代わりされたら。 僕たちは、その分の時間を、取り戻せます。 子どもと過ごす時間。学び直す時間。誰かの話をゆっくり聞く時間。何もしないで、ただぼんやりする時間。 ――さっきのカナダの実験で、人々が床を得たときに向かった先と、まったく同じ場所です。
つまり、AIは「労働を奪う脅威」であると同時に、「人生を返してくれる道具」でもある。 どちらの顔になるかは、技術が決めるのではありません。 その果実を、誰の手に、どう分配するかという――僕たちの選択が決めるんです。 だからこそ、また同じ結論に戻ってきます。 それを決めるのは、資本の論理ではなく、「一人一票」の側でなければならない、と。
右も左も、実は同じ山頂を目指している
こうして考えていくと、僕は一つのことに気づきます。
保守だ、革新だ。右だ、左だ。 僕たちは、いつもそうやって言い争っています。 でも、目指している場所は、実はほとんど同じなんじゃないか、と。
「すべての人が、生まれてきてよかったと思える社会」。 これに正面から反対する政治家なんて、右にも左にも、ほとんどいません。
違うのは、目的地じゃない。 そこへの"道順"と、"人間の見方"です。 市場に任せるのか、国が配るのか。 人は放っておくと堕落すると見るのか、そうは見ないのか。
つまり、同じ一つの山頂を、みんな違うルートから登ろうとしているだけなんです。
だとすれば、僕がやるべきことは、右か左かの旗を振ることではありません。 山頂だけを見つめて、「どのルートが、いちばん確実に、いちばん多くの人を頂上まで運べるか」を、冷静に選ぶことです。 対決ではなく、解決を。 イデオロギーの言い争いの、一段上に立つこと。
「頑張った人が報われるべきだ」というのも正しい。 「頑張れない人も生きていていいはずだ」というのも正しい。 どちらかが嘘なのではなく、両方とも本当で、両方を同時に叶えるのが、僕の仕事だと思っています。
政治の世界にいると、右だ左だ、与党だ野党だという言い争いの声が、いつも大きく響いています。 でも、街に出て、駅前に立って、普通に暮らす人たちの顔を見ていると、思うんです。 みんなが本当に求めているのは、イデオロギーの勝ち負けじゃない。 明日の暮らしの安心であり、家族と過ごす時間であり、「自分は、ここにいていいんだ」という、たった一つの実感なんだ、と。 その当たり前の願いの前では、右も左も、実はそんなに遠くない。 僕は、その当たり前の願いのほうを、向いていたいと思っています。
それは、労働の話でもあり、労働の話ではない
最後に。 「生まれてきてよかったと思える社会」――それは、労働で実現するものなのか、労働とは関係ないものなのか。 僕はずっと、そこをぐるぐると考えてしまっていました。
でも、いまはこう思います。 答えは、「どちらでもない」のだ、と。
生まれてきてよかった、という実感を、"労働で証明する必要をなくす"のが、床です。 けれど、労働そのものが消えるわけではありません。 労働は、「生きるための切符」ではなくなるけれど、「意味」や「誇り」の源としては、ちゃんと残る。
働きたい人は、働けばいい。僕が夜中にサーバーを回しているみたいに。 それは、とても尊いことです。 ただ、「働けないと、生きる資格がない」という脅しだけが、消える。
存在は、無条件。 労働は、選択肢。
この順番が、僕にとってはとても大事なんです。 順番が逆になった社会――つまり「労働できることが、存在を許される条件になる社会」は、AIの時代には、必ずどこかで壊れます。人間の労働そのものが、要らなくなっていくのだから。 だとしたら、僕たちは、機械に追い詰められて渋々この順番を入れ替えるのか。それとも、自分たちの意思で、先に「存在は無条件だ」と決めておくのか。 そのどちらを選ぶかで、これから来る社会の顔は、まったく別のものになります。僕は、後者を選びたい。追い詰められてからではなく、いまのうちに。
「頑張らないと生きられない社会」から、「頑張らなくても、死なない社会」へ。 床は、頑張りを殺しません。 むしろ、頑張りを"本物"にします。 強制された労働から、選ばれた探究へ。
そうやって、ようやく僕は、あの一枚の絵にたどり着けるんだと思います。
普通に暮らしてる人が。 普通に仕事して頑張ってる人が。 子育てしてる人が。 老後を生活している人が。 電車で通勤してる人が。 そして、ただ生まれてきてくれた、それだけの人が。
「幸せだな」って、思える社会。 不安のない社会。
その社会をつくる一票は、遠いどこかにあるんじゃない。 あなたの手の中に、いまもちゃんと、光っています。
** 朝霞市議会議員 わたなべ竜二 | 国民民主党 埼玉県朝霞市 ** * 国民民主党所属・朝霞市議会議員わたなべ竜二(渡部竜二)の公式サイト。朝霞駅・朝霞台駅・北朝霞駅エリアを中心に、朝霞市をもっ * * ryu2-w.jp *
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